チベットにおける自然法と自然権の対立(正義とは何か 補追3)
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作成日時 : 2008/06/03 10:00
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チベット人にとってあるべき姿とは、縁があって活仏と知り合って人生の道理を悟ることと言ったけれど、今のチベットでどうすればそれが実現できるかという見解によっても正義の居所は変わる。
自然法に従うか、自然権に従うかの違いがそれ。
仏法を自然法として置き換えると、チベット人が須らく願うのは仏法=自然法に従った生き方そのもの。だから、自然法に従う正義とは仏法に適ったものでないといけない。ダライラマ14世睨下が一貫して中国との対話による高度な自治の獲得、暴力に訴えない手法は、仏法に適ったもの。この路線は自然法に従った正義。
それに対して、ダライラマ路線のような悠長なことでは、高度な自治なんて獲得できやしない、武力を用いてでも、独立しない限り絶対無理なのだという考えもある。これはチベット急進独立派が主張するものであるし、チベット人は元々チベット人の生き方をする権利があるのだという、いわば自然権の考えと同じ。
だから、この意味において自然法と自然権の考えは互いに対立することもある。
双方とも共にチベット人としてのあるべき姿、仏法にもとづいた生き方、自然法を求めてる。そのための手段が違うだけ。でも現実世界をどのようにみるかによってその見解が分かれてる。
ロック的な性善説でみれば自然法だけでも生きていける。だけど、ホッブスのように将来も生きていられる確証がなければ、自然法を主張しても意味がないと性悪説にみれば、武力闘争も止む無しとなる。これはそのままチベットの対立と同じ。確かに中共政府の民族浄化政策を受ければ、明日の命に危機感を持つのも当然であるともいえる。
ダライラマ14世睨下は自ら法王であるがゆえに、仏に帰依しているが故に仏法を捻じ曲げることはできない。どんなことがあっても自然法的立場から離れることはない。
だけど、その路線では地上からチベット仏教が滅びると考えるチベット人もいる。
仏法を守って滅びるか、仏法を守るために仏法を犯すのか?
釈迦在世当時も釈迦出家後、釈迦族はコーサラ族に滅ぼされた。しかし仏の教えは残った。
今のチベット問題とその対応について、その意味が分かるのは後世になってからなのかもしれない。

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